キスのぬくもり
三月の夜風はアルコールで火照った身体を心地よく包み込む。
肌を突き刺す冷気は勢いを弱め春の到来をほのめかす。
時間とともに静まっていく街の喧騒。
二人は歩道橋をゆっくりと登っていく。
あの頃と同じように…
要司と萩は夜の街で偶然再会した。
萩は親友だったいづみと要司を残して二人の前から姿を消していた。
それは微妙な三角関係から逃げ出すためだったのだが…。
先に声をかけたのは萩だった。
そして、ちょうど近くに以前みんなで通っていたバーがあったのでそこへ誘った。
最初こそ驚いた表情の要司だったがすぐにあの頃と同様の優しい笑顔で応えてくれた。
バーに入った二人はカウンターの一番奥にあるストゥールに座り、要司はトムコリンズを
萩はキール・ロワイヤルをそれぞれオーダーした。
店内に流れるクラシック・ジャズ。
暗すぎない柔らかな間接照明の淡い明かり。
シェーカーを振るマスター独自のタイミング。
全てが懐かしさでいっぱいになる。
二人のオーダーしたカクテルが手元に届くと萩はそれまで避けていた会話を始めた。
「私、来月…結婚するの。」
「え…そっか…あれから随分時間が経ったもんな…
…おめでとう…」
「ありがとう…
いづみは…いづみは元気にしてる?…」
グラスに半分浮かんだレモンをつついていた要司の指が止まる。
「彼女とはどうにもなってない。あの後つき合ってないんだよ…。
いづみは結局、長野に帰ったんだ。」
「そうだったの?…
いづみは長野に帰ったの…」
萩はキール・ロワイヤルのスパークリングな泡が静かにはじけるのを見つめていた。

「この歩道橋に座り込んでいろんな話をしてたよな、あの頃。」
走り去っていく赤いテールランプ。
信号待ちに連なるヘッドランプ。
ビルの合間をこだまするバイクの排気音。
国道にかかる歩道橋の手摺にもたれながら、ぼんやり車の流れを眺めながら要司は呟いた。
要司はもしかしたら何度も一人でここに来ていたのかもしれない。
彼の横顔を見つめる萩には次第と締めつけられる想いが募る。
伝えたい想い…
伝えれなかった想い…
二つの想いはお互いの間を彷徨う。
ただ時間だけが緩やかに過ぎていく。
やがて二人の視線はお互いを捕らえる。
要司が先に口を開いた。
「萩…少し…少し目を閉じてごらん…」
「え?…うん…」
言われるがままに目を閉じてしまった萩の心は揺れ始める。
これってキスを受け入れるということ?…。
でも…キスだけなら…
婚約者の顔が頭をよぎる…
動揺する萩は目を閉じたまま動くことが出来ないでいた。
要司が近づいてくるのがわかる。
コロンの香り。
ブルガリのプール・オム。
あの頃と同じ香りが萩の鼻をくすぐる。
要司がすぐそばにいる…。
次の瞬間だった。
フーッ…
要司が吹きかけた息が萩の瞼をなでた。
「…?…」
はっと我に返った萩がゆっくりと目を開ける。
そこには夜空を見上げる要司がいた。
「…ゴミ…萩の睫毛にゴミがあったんだよ…」
「ゴミ…?…」
もちろん嘘に決まっている。
要司は萩の気持ちを探ったのだ、いや問いかけたのかもしれない。
言葉では問う事が出来ない想いを。
彼にとって萩が目を閉じたまま開けないでくれただけで十分だっただろう。
萩はすぐにそれに気付いた。
そのほんの短い時間の気持ちの交差は二人にとってキス以上の行為だったに違いない。
照れくささを隠すために萩は要司の胸にパンチを試みる。
要司に軽くかわされた萩はよろめいた。
よろける萩の手を要司はしっかり握って受け止める。
暖かい手…
手のぬくもりが心にゆっくりと流れ込んでくる。
そして彼の優しさがゆっくりと浸透してくるのを感じる。
萩はその手をぎゅっと握り返した。
この手のぬくもりを忘れない…
…キスのぬくもりの代わりに…。

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